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教会堂について

この教会の敷地は、江戸初期から味野村の庄屋を務めていた新屋荻野家(あたらしやおぎのけ)のもので、戦後にスウェーデン宣教師に売却されたものです。現在残る最古の建物は、明治初年頃に火災に遭ったのちに新築された座敷茶室土蔵で、150年ほど経っていますが、前半の75年は荻野家が、後半の年月は当教会がメンテナンスを続けています。母屋は1994年に解体撤去されましたが、その場所に現在の礼拝堂を中心とする教会活動のための諸室が配されています。

1951年(昭和26年)に、荻野充子とその次男知孝(父正孝は、再建第一銀行の最初の頭取であったが同年死去)が売主となり、林源十郎と更井良夫を立会人として土地建物が売却されました。1994年まではかつて荻野家を訪れる客人をもてなしていた座敷が、和室の礼拝堂として使われており、当初は座敷に座布団を敷いて後には椅子座で礼拝を行なっていました。

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1988年に野崎家の塩田が解放され瀬戸大橋が開通して味野の町は一変しましたが、既に100年ほど経つ建物には雨漏りを始めいくつもの不備があり、新たな建物を求める声が上がっていました。その頃、かつての庄屋の敷地から駅の近くに教会を移転する案と、現在の場所で継続して活動を続ける案が度々議論され、最終的に現在の土地で継続して宣教活動を行うことが決定されました。戦後に宣教師が購入後に近江八幡のクリスチャン建築家ヴォーリズによって改修された縁を頼って、再び同事務所に改修設計を依頼して、社長石田忠範氏と担当者入江氏による設計監理で1994年12月に竣工しました(施工;藤木工務店)。

ヴォーリズ事務所による礼拝堂は、宗教改革の伝統に則り、礼拝の出来事の全てが誰にでも分かり理解できるように作られています。同時に特徴的な屋根は、取り壊した庄屋の母屋に着想を得た入母屋をイメージした独創的なもので、味野の風景に馴染むものとして評価されて1995年の倉敷市建築文化賞(最優秀賞)に選ばれました。2009年には礼拝堂として使っていた座敷部分が改修されて、現在も快適に使われており、2021年には蔵の瓦葺き替え、2022年には礼拝堂の大屋根のメンテナンスも行っており引き続き地域に愛される建物を維持しています。また、2021年には、文化庁の調査対象にもなり、岡山県における近現代建造物緊急重点調査のリストに挙げられています。

新屋荻野家について

新屋荻野家は、代々、味野村の名主でした。記録が残る最古のもので、1672年寛文12年には既に庄屋であったことが確認できており、名主制度が廃止される1872年明治5年までの200年以上の間、この地域を代表する家として、行政組織の出先機関も兼ねながら地域に根付いた活動をしていました。味野の名家といえば、一般的には野崎家をまずは思い浮かべる人が多いと思いますが、野崎家はあくまでも新興商人でした。江戸末期において農業生産性が上がり、綿花を原料とした足袋の卸業で財を成し、のちに広大な塩田事業に乗り出したもので、資本主義の先駆けとしての商人の代表例であって、地域の自治・政治の中心は新屋荻野家の下にありました。

 

児島は、岡山県中部以北に比べて山が小さいために水が少なく、水田を整備することが困難な地域でした。そのため、江戸期開始直後1610年の備前藩主池田氏による慶長検地の際に既に塩田があったことが確認されており(5,650坪、味野古塩田)、新屋荻野家も阿津の洲脇氏に次いで、1664年には1,600坪の塩田を整備しました。

 

その後、1685年貞享2年に、善左衛門(1713年正徳2年没)は名主でありながら、キリシタンであることが備前藩に対して判明し、田畑家屋敷を取り上げられ御国追放となりましたが、味野村の住民の強い要望のおかげで処刑はされず、「鼻そぎの刑」だけで収まり2年後には放免されて再び庄屋(下肝煎)にとりたてられました。現在も、教会の日本庭園の奥には、キリシタン灯籠があり、蔵の中にも移設されたキリシタン灯籠が保管されています。

1780年まで庄屋を務めた善左衛門(1792年寛政3年没)は、味野村だけではなく小川村と通生村の名主を務めました。現在の味野中学校の敷地を含む塩田を整備したのは、娘の町が野崎武左衛門の妻となった善三郎(1856年安政3年没)で、その息子の善八郎(1874年明治7年没)は明治5年まで最後の名主を務めました。

善八郎の子、幸平(1899年明治32年没)は、児島銀行や味野紡績(1895年明治28年、のちの敷島紡績・シキボウ)を設立し、息子の正孝(1951年昭和26年没)は、再建された第一銀行(現みずほ銀行)の戦後最初の頭取でした。

味野村を荻野家の記録により人口で表現すると、以下のようでした。1665年寛文5年には村民719人で、1736年頃(元文年間)は村民935人でした。江戸末期1842年天保12年には1249人で、明治44年には2792人となり、江戸末期からの著しい人口増加が認められます。因みに、2023年令和5年9月末現在では、4752人となっています(味野小学校区)。

新屋荻野家の記録は、岡山大学図書館に地方資料の一つとして保存されています。そこには1376点の記録があり、上記の記録の主な出典はそこからのものでした。味野地区に深く関わる土地建物を受け継いでいる当教会としては、今後も地域に根ざした活動を継続していきたいと願っています。

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